イスラム教について

『ティールーム・ゼミ』に投稿された星様の記事を、ご本人のご意向により、各項目ごとにまとめて読みやすくしました。 内容の著作権は星様のご遺族に帰属します。



イスラム教について(1)(01/10/02(火)22:05:34 )

私は歴史も宗教も政治も素人ですが、それだけに誰にでもわかりやすい説明が書けるかも知れないと考えて、
今回、イスラム及びアフガニスタンについて多少の文を書くことにしました。
いくらかでも、広い理解につながれば幸いです。

[概略]

イスラム教徒 >イスラム原理主義 >タリバン >イスラム過激派(テロ集団)
と理解している人が多いと思いますが、この「イスラム原理主義」というのは、実は言葉としておかしいですね。
イスラム教自体が本来、コーランのみに依存した原理主義の宗教なのですから。
「イスラム復興主義」と訳されるべき語なのです。
イスラム復興主義は19世紀に始まりました。
軍事的、経済的なヨーロッパからの圧迫、中東分割支配などが引き金です。
この頃、イスラムでは近代化を目指す派閥と復興主義の派閥に分かれていきます。
ムハンマドの時代の正しいイラスムに戻るべきだと考えたのが復興主義です。
12世紀の頃から聖者がいろいろ現れるようになって、霊廟に触れると病気が治るなどと言うことが信じられるようになっていったのです。
これは一種の偶像崇拝で、復興主義の排斥するものです。
この復興主義運動は「ワッハーブ運動」と呼ばれ、サウジアラビアの建国へとつながっていきます。
キリスト教世界では、市民革命を経て宗教を俗権から切り離しましたが、イスラム教世界ではそういう近代化はなく、宗教が政治、軍事のすべてをつかさどり、宗教指導者は生活すべてにおいての指導者なのです。
また、「タリバン」はより正確に表記するなら「タ−リバーン」と書くべきなのですが、ここでは大勢にならってタリバンとしておきましょう。
アラビア語で学生と言う意味の「タ−リブ」の複数形です。

[用語について]
日本での名詞の表記、用法については不適切なものも散見されますので、ちょっと述べておきます。

イスラム:本来は「イスラーム」と表記すべきなのですが。アッラーへの「絶対的帰依」または「全き平安」の意味。
アッラ−: イスラム教の唯一神。 「個別神」(普通名詞)を意味するイラフーンという語に、定冠詞アルを付して
        アル・イラーフとなり、音韻の法則によってアッラーフと転化した。「アッラ−フ」が正しい表記。
ムスリム:イスラム教徒のこと。5箇条の信仰条件、6箇条の行動条件を守っている者のみがムスリム(平安の意)
        として認められる。
ムハンマド:よく書かれている「マホメット」は英語読み。イスラム教の創始者。
クルアーン:日本では「コーラン」と訳されることが多い。聖典のこと。「読むこと」「読誦」を意味するアラビア語の
         動名詞クルアーヌン(基本動詞はカラア)から。
モスク:イスラムの礼拝堂。正しくはアラビア語で「マスジド 」。「平伏する場所」の意味。
メッカ:聖地。アラビア語ではマッカ。

イスラム教について(2) (01/10/05(金)12:32:59)
 
[特徴]

イスラム教は日本ではなじみが薄いようですが、仏教、キリスト教、ユダヤ教などよりずっと後に生まれた宗教で、それだけに比較的、成立時の事情もよくわかっています。
そして、世界中でイスラム教の信者は今も増え続けていて、現在世界中で推定約6億人の信者がいます。
世界最大のイスラム教国は東南アジアのインドネシアです。
主な分布は北アフリカ、西アジア、東南アジアが中心。
NYのタクシー運転手の多くがイスラム教徒ですし、もうアラビア地方だけの宗教とは言えないでしょう。
一神教としてはキリスト教と2大勢力を形成していますが、その違いを下記の表に示してみました。
中には一部例外的見解をとる宗派もありますが・・・。

イスラム教 キリスト教
アッラ−のみ
ムハンマドは予言者(人間)
神と子と精霊(三位一体説)
イエスは神の一形態
他方の宗教に  本来はキリスト教、ユダヤ教にも寛容 
 啓典の民と呼んだ
宗派が違うだけでも不寛容の歴史
 異教徒と糾弾
預言者の出自 隊商貿易の商人
セム語系非国家部族
大工の子
ユダヤ人
聖書 クルアーン
 ムハンマドの言行録
 具体的生活規範含有
 ムハンマドの言葉そのもの
 原典残存
いわゆる聖書 the Book(旧訳と新訳)
歴史書及びイエスの言行録
イエスの言葉だが弟子達の解釈、翻訳が大きい
原典消失多し
聖職者 基本的に聖職者と言うものは存在しない
神と信者のみ(師:法学者)
強固な縦社会を形成
人間観 人は弱いものとして位置付け
 欲望の元をさける手法
強くあって当然と位置付け
 欲望を押さえ付けるべきとする
エルサレム 『岩のドーム』
 世界の中心たる聖なる岩がある
ゴルゴタの丘に立つ『聖墳墓記念聖堂』
 イエスの処刑、埋葬、復活に関わる 
入信儀式 原則としてコーランを信じることだけ 洗礼、信仰告白など
偶像崇拝 礼拝対象すべてに拒否ムハンマドの人格すら排す  絵や建築物など多数
イエスの人格も神として崇拝



イスラム教について(3)(01/10/06(土)22:23:59)
 
[イスラム教成立の歴史]

西歴600年頃、アラブ半島のほとんどではまだ部族単位の社会で、
国家や民族としてまとまっていたわけではありません。
ラクダの遊牧民、小規模農業、隊商貿易などで暮らしていました。
アラビア半島西側の紅海に面した地方は交易ルートになっていて、隊商貿易商人が中心の都市が発達しています。
マッカでは、クライシュ族などの富裕な貴族たちが偶像崇拝に明け暮れて物欲まみれの暮らしをしていました。
マッカもまた隊商貿易商人の町でした。
宗教は部族の神様が中心で、ユダヤ教やキリスト教も商人によって伝えられていましたが、カーバ神殿には数え切れないほどの神がまつられ、大祭の市での収入が商人を肥え太らしていました。
しかし、貨幣経済の発達の裏で、大多数の民衆や奴隷は食べることもままならないような悲惨な境遇に甘んじていたのです。

そんな中、西暦570年マッカでムハンマドは生まれたと言われています。(生年については異説あり)
隊商貿易商人の父親は彼がお腹にいる時に亡くなり、8歳までに母親、祖父と次々に失って、やはり隊商貿易商人の伯父のもとで育ちます。
ムハンマドも隊商貿易商人になり、ハディージャという女性と結婚します。
この女性は裕福な未亡人で彼のボスだったのですが、彼を気に入って求婚したのです。
15歳も年上だったので常識人のムハンマドはためらいますが、その心からの愛情を知って結婚し、終生仲の良い夫婦生活を送ります。

裕福な商人として40歳になった時、ムハンマドは趣味の瞑想中に(注:娯楽のない時代のインテリの趣味として流行っていた形跡があります)、
神憑かり状態になります。
しかし、彼はすぐに神の啓示だと言って布教に入ったわけではありません。
悪霊に取りつかれたと思い、人に変だと思われることを怖れたのか、しばらく胸に秘めたままにしておくのですが、度重なるうち妻に告白します。
妻は賢い人だったようで、彼の体験をいろいろ聞いて考え、従兄弟に相談します。
この従兄弟がたまたまアラブ人には珍しいキリスト教徒で、
「アブラハム、ノア、モーゼ、イエスなど、そういう声を聞いた人は、昔から何人もいたんだよ。」
と言います。
それでやっと納得した彼は、「さあ布教だ〜!」と言ったかというとそうではなくて、またまた常識人をやります。(^^)
家族親族から布教し始めて、神憑かりになった時の言葉を信じてもらえるようになっていきます。
信じてもらえた理由の第一は、その言葉は韻を踏んだ詩で、彼にはまったく詩の才能はなかったからなのです。(^^)(このへん、大変共感を覚えます。笑)
そのうちメッカの商人仲間にも布教するようになっていくのですが、今度は対立し、弾圧されます。
神はアッラ−だけと言われたら、カーバ神殿のお祭りも出来ず、大きく収入が減るからです。

622年には迫害もひどくなってきたので、マッカの北200kmのメディナという町へ逃れます。
この時の信徒はわずか70人ほどでした。
これをヒジュラ(聖遷)と呼びます。
当時メディナの町に住んでいたアラブ人は部族間や対ユダヤ住民の対立が激しく、大変、不安定な状態にありました。
ムハンマドの信者達は宗教で結ばれた多部族の人の集まりで、これは今までにないことでした。
このような共同体のことを「ウンマ」と言います。
ムハンマド等は部族対立の中立的解決者、仲裁者として認められるようになります。
信者なら皆平等で相互扶助を惜しまないと言う彼の教理のため、一度はずみがつけばあっという間に組織は拡大していきます。
砂漠の遊牧民も次々に入信を果たし、更に勢力を強めて政治的まとまりをもたらし、やがてイスラム教自体が国家として機能するようになってきます。

630年には、ずっと敵対してきたメッカを征服、631年にはアラビア半島を統一しました。
632年にムハンマドは死去しますが、その死後、イスラムはさらに発展していきます。
(注:しかし、ムハンマド自身の後継ぎの男の子はみんな死んでしまいました。 )

現在、欧米諸国とイスラム系国家の紛争が続いていますが、まず、イスラム教についてある程度わかった上で、ここの事例を判断して欲しいと思います。
アフガニスタン問題についての説明も書いていますので、もう終わったことなどと思わず、一度目を通してみてください。
現在の国際情勢と絡み合う部分は多いと思います。




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