アフガニスタン近・現代史(詳説)


『ティールーム・ゼミ』に投稿された星様の記事を、ご本人のご意向により、各項目ごとにまとめて読みやすくしました。
内容の著作権は星様に帰属します。

                      



★アフガニスタン近・現代史・・・詳説(1)(01/10/12(金)21:18:53 )
[独立と立憲君主国家]

アフガニスタンは イラン領、英保護領だった時代もあるが、1919年に独立。
憲法も制定されているので立憲君主制の国である。
この国の歴代の王たちはアフガニスタンを徐々に近代化していった。
エリート養成のためのカブール国立大学や外国語学校を開設 し、 官僚には洋装を強制したばかりでなく、女性にも顔を隠すためのブルクァを脱ぐことを奨励 し、短期間ではあったが女学校さえも開いた。
後にこの国立大学では、神学部の講師 グーラム・ムハンマド・ニアズィーが、学生や教授たちを中心に「イスラム協会」という団体を作り、多くのムジャヒディンを生む母胎となったのは皮肉な結果だったが。

1933年11月にナディル・シャー国王が暗殺され、父王の後を継いだザヒル・シャー国王は、若干19歳だったが、以来40年間にわたって君臨した。
MO-HAMMED ZAHIR SHAH(1914年10月15日生)は今、話題の人になっていますね。
当時、フランスに留学後、32年に国防次官に就任したばかりだった。
最初、この王国の伝統で、彼は日々の政治を王家の近親者に任せ、自身は一歩引いた立場を維持し、性格は穏やかで、むしろ優柔不断とすら言われていた。
アフガンは前ナディル国王の時代以来、ソ連とは距離を置き、中立を保っていたが、53年に首相に就任した野心家のダウド殿下は、自らの権力基盤を固めるため、ソ連に急接近した。
この状況を見て、63年の時点で国王はそれまでの態度を急変させる。
彼は国王の妹と結婚していたが、事態を憂慮したザヒル国王はダウド殿下を解任し、自ら国政を取り仕切るようになった。
1964年には、 アフガン近代化の基礎を固めるために、イスラム教に基づく伝統的価値を維持しつつ、西欧型民主制度を導入した新憲法を発布し、近代的英国型立憲君主制を開始したが、首相、最高裁長官の任命は実質的に国王が行っていた。
72年に発足したシャフィル内閣は閣僚を若手で固め、特に国王の信頼が厚かった。


★アフガニスタン近・現代史・・・詳説(2)(01/10/22(月)16:37:27 )
[ソ連介入]

1973年7月17日、国王ザヒル・シャーが眼の治療のためイタリアに滞在中、突然クーデターが発生する。
元首相、ダウド将軍がクーデターを起こし、共和制へ移行させたのである。
ザヒル・シャー国王はそのままイタリアに留まり、亡命。
発足した国会は実質的に部族の代表で構成されたが、新政府の閣僚の半数は共産党党員で、このクーデターはソ連共産党が後押ししたものと見られている。

ダウド新大統領は共産党体制を固めるために、イスラム協会を初め全ての政治グループを禁止した。
すでに政党として組織されていたイスラム協会は、ダウド政権による弾圧のターゲットになったのである。

1974年、イスラム協会の主要メンバーはその状況を見て取ると、隣国パキスタンのペシャワールという街に逃げ込んだ。
ラバニ、ヘクマティアル、マスード等、後にムジャヒディンと呼ばれるようになった者達もここに逃げ込み、弾圧された他の人たちも続いた。
やがてこのペシャワールでは反政府ゲリラがいくつも組織され、アフガニスタンに介入したソ連とに激しい抵抗運動を繰り広げたのである。
つまりペシャワールは「ムジャディン」(聖戦士)たちの活動拠点となったのだ。
その主な団体は、イスラム協会 、イスラム党 、アフガニスタン・イスラム革命運動 など7つの団体で、その後イスラム団結党(後のイスラム統一党)とイスラム国民運動(ドスタム将軍派)が加わる。

一方、勢力を拡大していった共産党内部では血で血を洗う内部抗争が起きていた。
1965年に アフガニスタン共産党は結党したが、革命路線の相違により二つに分裂した。
「ハルク(人民)派」と「パルチャム(旗)派」である。
1978年4月にダウド大統領がハルク派のクーデターにより暗殺。
ハルク派のリーダー、タラキがつぎの大統領になったものの、またも暗殺。
1979年12月 、彼の後継者アミンもソ連侵攻時に暗殺され、パルチャム派のカルマルが大統領になった。
わずか2年足らずの間に3人の大統領が暗殺され、次々と大統領が変わったのである。

この間、国内やパキスタンの難民都市ペシャワールでは反体制運動、反共運動が盛んになった。
ペシャワールでは組織された反体制ゲリラが活動を開始していた。
ソ連は、反体制運動による治安の悪化を回復するという名目で、1979年12月にアフガニスタンに軍事介入を始める。
その本当の意図は不凍港と資源を求めての利権確保だったと言われている。
89年2月ジュネーブ合意に基づき、ソ連軍が撤退するまでの約10年間、アフガンのムジャヒディン達が率いる9つの反共ゲリラ集団は頑強な抵抗運動を繰り広げる。
中でもイスラム協会のラバニとマスード、イスラム党のヘクマティアルがその重要人物だった。

本来厳しい気候の中で遊牧民の生活をしてきた彼等が、地の利を活かしえたこともあるが、それだけでソ連のプロの軍隊に対抗できるはずもない。
実はこのゲリラ活動を支援していたのがアメリカとパキスタンとサウジアラビアである。
これらの国が一流のゲリラ養成のために提供したものを挙げると・・・

 アメリカ・・・武器、ゲリラ戦術、施設
 パキスタン・・・訓練場
 サウジアラビア・・・資金

また、現在各地で「アラブ・アフガン」とか「アフガン・ベテラン」と呼ばれる人たちがテロ活動をしている。
彼等は、ソ連介入のときにアフガニスタンに馳せ参じ、ゲリラ養成所で訓練を受けた外国のイスラム教徒たちである。

★アフガニスタン近・現代史・・・詳説(3)(01/10/22(月)17:42:11)

[ムジャヒディン闘争]

アフガニスタンでは、89年2月ジュネーブ合意に基づき、駐留ソ連軍の撤退完了。
92年4月ムジャヒディン・ゲリラ勢力の軍事攻勢によりナジブラ政権が崩壊する。
ムジャヒディンたちはカブールに入城し、イスラムに基づく連立政権が成立した。
大統領に就任したのはイスラム協会のブルハヌディン・ラバニ。
国防相のポストを巡ってヘクマティアルは反発。
ラバニはとうとう反共ゲリラの英雄マスードを国防相から解任し、過激なヘクマティアルを首相に迎え入れる結果になった。
このヘクマティアルはパキスタンと深いかかわりを持つパシュトゥン人。
また、ラバニはウズベク人のドスタム将軍派とハザラ人シーア派勢力を無視した。
ドスタム将軍には政権から排除されたため、北部六州を占拠してしまった。
ハザラ人勢力は同じシーア派のイランからの支援を受けてソ連に抵抗していたが、イランのひも付きをパキスタンや米国に嫌われて政権から疎外された。
ナジブラ政権を倒しカブールを占拠する際、分割統治を巡って激しい戦闘が起こった。
イスラム協会、イスラム党、シーア派勢力、ドスタム将軍派は、ここで多くの犠牲者出し、対立を深めた。
そして権力の座を奪い合って内戦状態が継続していく。

ムジャヒディンたちは連立政権が無理と判断し、ラバニ派と反ラバニ派に分かれて対立する。
ラバニ派はラバニ、マスードを中心とし、反ラバニ派はヘクマティアルとドスタム将軍を中心として各地で戦っていた。
そうでなくても複雑なこの内戦を、更に複雑にし、長期化させたのが近隣諸国の無責任な支援である。
パキスタンはヘクマティアルを、タジキスタン・インドはラバニを、ウズベキスタンはドスタムを、イランは両勢力のシーア派を、サウジアラビアはヘクマティアルとサヤフを、それぞれの思惑によって支援していた。

これらムジャヒディンたちの集団は、いずれも略奪や暴行を働き、また勝手に通行税を取ったりして、結局、残されたものは数百万人の難民と荒廃した国土だけだった。
また、彼等ムジャヒディン達の資金は周辺各国や米国からの支援や支配地での通行税などだけでなく、ケシの栽培による麻薬の密売も大きな利益を上げていた。
これが、かつて聖戦士と呼ばれた英雄達の実態である。

なお、日本のTV番組では、タリバンに対する反動で、このムジャヒディン達を英雄視したり、「まだマシ」と言ったりする風潮があったので、私は大変遺憾に思っている。
女性に対する暴行や私財の略奪、残忍な公開処刑など、むしろムジャヒディンのほうがタリバンなど足許にも及ばない状況だったのに。
都市部の中産階級以上ではタリバンの規律の厳しさが嫌われる場合もあるが、圧倒的多数の貧しい地方の農村や遊牧民の女性は、音楽が聞けないのも、学校に行けないのも、保守的服装云々も、そもそも縁のない話なのであるから苦とも思ってはいない。
そんなことよりも襲われることもなく暮らせるという取りあえずの安心がタリバン支持につながったのを見過ごしてはいけない。
ケシの栽培の撲滅に務めたのもタリバンで、国連はハッキリとそれを評価している。

★アフガニスタン近・現代史・・・詳説(4)(01/11/10(土)16:10:54)
[タリバン・その1]

タリバンについてはNo.73の「概説」の(4)で少し述べてありますが、更に詳しく見ていきましょう。
注意すべきことはアルカイダとタリバンを混同しないことです。

●タリバン関係年表

★1994年頃   タリバン結成。
★1996年9月  タリバンが首都カブール制圧。暫定政権の樹立を宣言。
    10月  反タバリン派結成。
      (ラバニ派、ハリリ派、ドストム派等。北部のマザリ・シャリフ拠点)
★1998年夏  マザリシャフ、バーミアンも制し、国土の90%以上を制圧。
★1998年8月 アフリカ東部のケニヤとタンザニアで、アメリカ大使館への同時爆破テロ事件
★1999年3月及び7月  国連等の仲介により内戦に対する和解交渉決裂。
★1999年10月 国連安保理決議1267採択。
       (タリバンによるウサマ・ビン・ラディン庇護を理由とする対タリバン制裁)
★2000年5月  国連和解交渉決裂。
★2000年6月  タリバンの最高指導者オマル師がケシ栽培禁止の布告。
★2000年9月  タリバンは反タリバーン派の拠点の一つタロカーン市を陥落
★2000年12月  国連安保理決議1333を採択。
       (タリバンによるテロ支援、麻薬栽培等を非難する対タリバン追加制裁)
★2001年2月  タリバンによるバーミアンの石仏等の破壊。
★2001年9月  米国同時多発テロ発生。オサマ・ビン・ラディンに容疑。

★アフガニスタン近・現代史・・・詳説(5)(01/11/10(土)16:15:51)
[タリバン・その2]

●タリバン結成〜アフガンの90%制圧

タリバンの発生については、概説にも少し書いたとおり、内戦状態のムジャヒディン達の腐敗、横暴、内紛に対して、憂国の士として誕生したのがタリバンである。
アフガニスタン人の大半を占めるスンニ派のパシュトゥン人が基盤。
最高指導者のオマル師をはじめ、戦火を逃れてパキスタンの難民キャンプ、ペシャワールにいたパシュトン人のイスラム教聖職者たちと、彼らが運営する学校の学生たちによって結成された。
彼等の出身地は国境を挟んだアフガニスタン東部のカンダハル周辺である。
彼等はイスラム理想社会を目指して結成され、急速に力をつけていく。

タリバンが急激に勢力をのばしていった背景には、パキスタンの支援が大きな力になっていた。
パキスタンは94年まではムジャヒディンのヘクマティアルを支持していたが、内戦はおさまらず、支配地域の私物化や通行税の徴集による道路の実質上の封鎖などにいらだっていたのだ。
なぜか・・・パキスタンは、天然資源が豊富な中央アジア諸国との貿易を活発にしたいのに、アフガニスタンの道路が使えず一向に先が見えない状況だったのだ。
しかも、ライヴァルのイランは、中央アジアとの鉄道接続計画などを着々と進めていて、焦りはつのるばかりであった。

そこで、興味深い事件が起こる。
パキスタンの有力財界人の一人が計画したことだといわれているが、
貿易ルートを切り開くため、トラック・キャラバンを中央アジアに向けて送り出し、アフガニスタンの道路を通らせたのだ。
当然、アフガニスタンのカンダハルへ向かう途中でゲリラによって止められ、貨物を奪われそうになった。
そこで正義の味方としてデビューしたのがタリバンだった。
彼らは300人程度の武装勢力でゲリラと戦い、トラック部隊を救い出した。
この筋書きがどういう政治的背景によって遂行されたのかは不明である。(^^)

更に、カンダハルのゲリラが若い女性を連れてきて監禁・虐待しているとの通報を受けて救出作戦を行い、
ヘクマティアル派系ゲリラを倒してカンダハルを占拠した。
彼らは故郷の町に凱旋したわけで、熱烈な歓迎を受ける。
他のゲリラ組織の兵士にもタリバンへの同調者が増え、自分のボスから離反してタリバンに合流する兵士が相次いだ。
そうして首都カブールも制圧して暫定政権の樹立を宣言するが、彼等の厳格なイスラム復興主義は都市部では受け入れられ難く、中産階級以上の人々は次々とパキスタンに逃れた。
一方、反タリバン派としてラバニが中心となったムジャヒディン連合のような派閥、北部同盟もできるが、劣勢を余儀無くされて北部に退却していく。
彼等は諸説(1)で触れたカブール国立大学に在籍していたエリートたちがリーダーで、
タリバンは難民としてパキスタン領内でイスラム教会内の神学校(マドラサ)に在籍していた貧しい遊牧民がリーダーだということを、ここで強調しておきます。
その後、北部の要衝マザリシャフや中部のバーミアンも支配下に入れ、90%以上の支配を確立するに至る。
タリバンとオサマ・ビン・ラディンとの関わりはこの頃に始まるが、タリバンにオサマを紹介したのはパキスタンであったと言われている。

★アフガニスタン近・現代史・・・詳説(6)(01/11/10(土)22:38:23)

[タリバン・その3]

アルカイダのテロ疑惑
米国がオサマ・ビン・ラディン率いるアルカイダに依るものだとして糾弾したテロ事件は、今年9月の同時多発テロ以前にも多くのものがある。

92年のイエメンにおける米軍の常宿ホテル爆破事件。
93年、アメリカが介入したソマリア内戦に結集するようアラブ人の元ゲリラ(アフガン・ベテラン)に呼びかける。
93年の世界貿易センタービルに対する爆破テロ。
95年から96年にかけて、サウジアラビアの米軍施設が相次いで爆破。
98年の東アフリカにおける米大使館爆破事件。
99年末のアメリカ各地での「ミレニアム」同時多発テロ計画が実行直前の検挙で回避。

以上の経緯から、アメリカは「92年以降の一連の反米爆破テロ事件を起こしたのはビンラディンの組織である」と断定している。
ただし、いずれも状況証拠であって、物証となると非常に乏しい。
それにもかかわらず、米国は98年のケニア・タンザニア米大使館爆破テロの直後に、アフガニスタンにおけるアルカイダの施設と、ビンラディンと資金的つながりがあるスーダンの化学工場を、報復としてミサイル攻撃している。
ところが、このスーダンの化学工場はごく普通の抗生物質を作る薬品工場だったことが判明し、米当局もそれを認めざるを得なかった。
98年の米大使館爆破テロの裁判がニューヨークの連邦地裁で行われ、今年の5月には実行犯や資金調達係など4人が有罪とされたが、この裁判の法廷資料の多くが非公開とされたのはなぜだろうか?
公開されている証拠のほとんどは関係者の証言であり、信憑性に疑いのあるものも含まれている。
これでは、米国はイスラム世界にだけでなく国際的にも信用されることはないのではないだろうか?

今回のアメリカの対テロリスト戦争は、実は実質的には98年クリントン大統領時代にすでに始まっていたとも言える。
このような経緯の中で、タリバンが古くからの客人であるオサマ・ビン・ラディンを証拠の提示もなしに西側に引き渡すはずがないのは明白である。
今や、アメリカはビン・ラディンだけでなく、彼をかくまうもの、協力するものすべてを敵と見なして、圧力をかけ、空爆を続け、特種部隊を投入している。
そして、赤十字社の施設をはじめ、民間人の犠牲が出ていることも既に報道されている通り。
テロ撲滅と言えば聞こえはいいが、過去および今回のアメリカのやりかたに真に賛同できる人は一体どれだけいるのだろうか?
そして、日本で、この経緯をわかった上でなお戦争に協力すべきだという人は・・・?

★アフガニスタン近・現代史・・・詳説(7)(01/11/13(火)21:00:05)
[タリバン・その4]

●オサマ・ビン・ラディンとCIA

今、アメリカが躍起になって捕らえようとしているらしいビン・ラディンであるが、彼が米国とどのような関係にあったのかを知っておいた方がいいかもしれない。

1980年代、ビン・ラディンが対ソゲリラ戦を戦っていた頃、米国CIAが彼と接触していたことはよく知られている事実である。
それはイギリスやパキスタンの政府関係者によっても確認されている。
その後、敵同士になったとアメリカは言っているが、はたして本当だろうか?
というのは、 海外の報道記事を読んでいくと、不可解な事実につき当たってしまうのだ。
1960年代頃から、CIAは叩き潰せる脅威を叩き潰さずにおいて、CIAの存在意義を政府にアピールする材料に使って来たことは既に知られている。
ビンラディンはCIAのそういう戦略の裏をかいて、今、手にあまる危険となってしまったのかもしれない。
順を追って話してみよう。

★96年
米国のビレッジボイス誌によると、 当時母国サウジからスーダンに亡命していたビン・ラディンについて、スーダンのエルワ国防大臣が訪米してその引き渡しを申し出、米国での裁判を求めたと言う。
しかしCIAに断られたと、交渉に当たったエルワ氏自身が語っている。
94年以来続いていた サウジアラビアの米軍施設へのテロ攻撃はビンラディンが引き起こしたと米国は声高に断定していたにもかかわらず、である。
証拠もなく断定した米国は、対処に困ってサウジに引き取りを要請しても断られ、好きなところへ出国するように取り計らったところ、ビン・ラディンとその組織はアフガンに移動した。
その時、ビン・ラディンをタリバンに仲介したパキスタンは彼の資金をありがたがったものである。

★98年
AP通信によると、ビン・ラディンよりとして知られるサウジのタラキ王子が、6月にタリバンの最高指導者オマル師と会い、ビンラディンをサウジアラビアに引き渡す交渉をした。
タリバン政権のオマルは引き渡しに傾いていたのだが、その2ヶ月後の8月、ケニアとタンザニアで米大使館同時爆破テロが起こった。
アメリカはテロの2週間後にアフガニスタンのビンラディン関連施設とスーダンの化学工場をミサイル攻撃。
スーダンの化学工場がまったく普通の民間工場であったことは「詳説4」で述べたが、タリバン政権も「ビンラディンが犯人だという証拠も提示しないまま領土を攻撃した」と激怒し、ビンラディンの引き渡し交渉は当然白紙に戻った。
アメリカ側がいきなりミサイルを撃ち込まず、タリバンとの交渉を続けていたらビン・ラディンの身柄は手に入るところだったのに。

★2001年
フランスの新聞 Le Figaro の報道によると、ビン・ラディンは今年7月4日〜14日、ドバイのアメリカン病院に腎臓の病気を治療するため入院していたそうである。
ところが、その病院に、なんとCIA要員やサウジ高官などが相次いで面会に訪れていたという。
みんなグル説が出て来てもしかたないところである。
また、イギリスのエコノミスト誌(米国寄り)など英仏豪の各紙によると、サウジ政府の情報機関のトップを務めていたビンラディン支持派のタラキ・アル・ファイサル王子は、ビンラディンとの面会後、9月11日の大規模テロ事件までの間に、情報機関トップの地位を解任されている。
これは非常に不可解な事実である。続くテロを示唆しているとしか見えない。
米国及び日本の大新聞は全く触れていないのはなぜだろうか?

さて、これだけの経緯を読んだ後、今回の同時多発テロ後のアメリカの態度をゆっくり振り返ってみて下さい。
今度こそ本気でビン・ラディンを捕らえることを目標にしているのかどうか。
それは口実ではないのか?テロ撲滅というスローガンすらも疑うべきでは?
今、西側各国が額を集めて相談しているのは、タリバン打倒後の傀儡政権のことなのだ。
利権に群がるハイエナの尻尾がちらついていませんか?(^^;)
どこかで見たような構図ではないだろうか。

ひとつ思い出してもらおう。
現ブッシュ大統領の父親も共和党出身の大統領だったが、1993年6月、イラクにミサイル空爆を行っている。
その理由は、4月にイラクが自分への暗殺計画を企てた、というだけだった。
父親は単なる「計画」に対して実際に武力行使の報復を行った大統領なのである。
現ブッシュ大統領も今年1月に就任後すぐにイラクへのミサイル攻撃を行っている。
●ビン・ラディンの過去

ソ連侵攻時、世界のイスラム教徒達に向けてアフガニスタンへも義勇兵キャンペーンが展開された。
表に立ったのはパキスタンとサウジアラビアだが、背後にはしっかりアメリカの影が見隠れしていた。
アフガニスタンやパキスタンの軍事訓練施設は米CIAの運営だったのだから。
イスラム圏の人たちにとって、宗教を認めない共産主義は大きな脅威であったから、多くの若者が、アフガニスタンに行ってソ連軍と戦うことを志願した。
志願兵とはいえ月給が出たことも志願兵増大に寄与したものと見られる。
サウジアラビア出身のオサマ・ビン・ラディンもその義勇兵として馳せ参じたうちの大物の一人であった。
彼はサウジの富豪ビン・ラディン財閥の御曹子であった。
サウジの王族とも親交があったようだ。
彼は自らの資金も大量に注ぎ込んでいった。

ソ連撤退後、義勇兵の多くは帰国して自国やイスラム圏の現状に眼がいった時、反政府活動・反米活動の核になっている。
義勇兵は本来、敬虔なムスリムだった上、アフガニスタンで更に信仰を妥協のないものにしていった。
それだけが戦いを支えるものだったのだから、当然の帰結と言える。
しかも彼らは戦場で、出身国ごとにまとまっていたため、帰国後もそのネットワークが生きていた。
彼らは帰国後、自分の国をより良いイスラム社会にする活動を始めた。
しかし、サウジアラビアやヨルダンなどは、貧しい人々を放置し、汚職の横行する腐敗した政府だった。
中東の石油利権や、イスラエル寄りのアメリカがそれを助長しているという構図も見えてきた。
ビン・ラディンもサウジ政府を批判して家族から縁を切られ、弾圧を逃れてスーダンに亡命する。
他の元義勇兵たちのイスラム復興主義活動も、すぐに政府に弾圧される。
しかし、彼らはアフガンで培った軍事技術を持っており、爆弾を作ったり政府要人を銃撃するのは、お手のものだった。
こうして反政府・反米運動はテロリズムと結びつき、イスラム過激派と呼ばれるものになった。
ソ連撤退後、アメリカは悪役となったが、オサマは、イスラム教徒の苦境を救う人物として名が残り、アフガニスタンからの難民が多く住むペシャワールだけでなく、中東全域で英雄視されるようになった。

アフガニスタン近・現代史・・・詳説(8)(01/11/14(水)21:57:44)

[B]詳説(8)・・・タリバン・その5

無力な国連

国連が主導して収拾をはかるべきだという人は多いのだが、国連が過去どのようにアフガンに関わって来たかを知ると、大して希望が持てないことが明白となる。
国連安保理はアフガニスタンに対して2度の制裁を決議し、しかも制裁委員会は異常としか思えないような決定を出してきたのである。
では、その内容を見てみよう。

★対ソ戦時代からの難民支援の実態
かくも大量の難民を出した国は未だかつてないだろう。
原因は戦乱だけでなく、旱魃による飢餓、用水路の破壊による灌漑用水、飲料水の不足ということもある。
難民の数すら正確には把握できない状態が続いているが、その数は夏の時点で国内外の避難民は600万とも700万とも言われている。
アフガニスタンの人口は2000万人に満たないから、3人に一人は難民ということになる。
難民キャンプは女、子供、老人の非戦闘員がほとんどで、男達の大半は送り届けた足で戦闘に戻る。
ソ連侵攻時の難民には西側諸国からの援助が大量に流れ込んだが、ゲリラの家族を養ったのが難民キャンプということになる。
ペシャワールには、その当時その支援物資を横流しして稼いだアフガン有力者の豪邸も立ち並んでいる。
しかし、もっともあくどく儲けたのはパキスタン政府の政治家や役人たちである。
また、 パキスタンはゲリラに武器を与え、リーダーを互いに反目するように操縦して自らの影響下に置こうとした。
ソ連撤退後の内戦の芽はそこにある。
ナジブラ政権崩壊にともなって 92年から難民の帰還が始まったが、CAR(アフガン難民管理事務所)の報告する難民数は減るはずなのに変化しなかった。
国連側の人口調査は銃で阻まれる有り様だったのだ。
冷戦終結後は西側諸国の難民への関心も薄れ、 食糧の配給制度は廃止された。
その後のおいしい仕事は麻薬と密輸だった。
多くの難民は飢えて凍えている横で、そのような搾取が行われてきたのだ。

★国連安保理決議
アフガニスタン制裁のための議案を強力に押したのは米国とロシアである。
安保理常任理事国は米、ロ、英、仏、中の5カ国。
この5カ国が同意すれば他の国すべてが反対しても成立するのが安保理決議である。
ロシアはチェチェンゲリラの問題を抱え、タジキスタン、トルメニスタンなど周辺国の治安悪化、政権不安があったし、中国は反米感情はあるものの、宗教、民族の問題を抱えている。
どちらも、タリバンのイスラム復興主義を容認するわけにはいかないらしい。
99年の対アフガン制裁の理由はタリバンによるビン・ラディン保護。
92年以来のテロに対しての報復と考えてよい。
制裁の内容は主に武器および食料、物資の禁輸、航空路の封鎖。
この制裁はタリバンに対してのものであって、反タリバン勢力には武器が供与されている。
食料や医薬品も同様。
さらに、2000年12月、国連安保理は追加制裁を決議する。
賛成13、反対0、棄権2(中国、マレーシア)だった。
常任理事国中、中国が棄権したが、反対したわけではないので通過。
その理由は、前制裁にもかかわらず、タリバンがビン・ラディン引き渡しに応じないこと(前章参照)と、アフガンの麻薬輸出疑惑。
内容はさらに厳しい禁輸措置を含み、テロリスト訓練キャンプといわれる施設の閉鎖要求、タリバン関係者の海外資産凍結など。
この議案が提出される以前から、国連のベンドレル特使は関係者を話し合いのテーブルにつかそうとかけまわっていたが、その努力は水泡に帰してしまった。
あの穏健派の コフィー・アナン国連事務総長ですら、この追加制裁には懸念を表明していた。
米露の強力なロビー活動が決議を成立させてしまったのだ。
タリバンだけでなく非西側諸国は、すでに国連=正義の味方なんて考えているはずがない。
国連スタッフは、この追加措置に対して民衆の暴動があるかと恐れ、一時アフガンから退去していたくらいなのだ。
この追加制裁に対して、タリバンは、抗議行動をしても無駄だと住民に自制を呼びかけた。
制裁への非暴力の抗議として、タリバンは「今後は国連主導の和平会談を拒否する」としている。
私も 国連が中立性をいちじるしく欠く行動をとったことは否定できないと思う。


国連制裁委員会の不思議

99年、2000年の両制裁においての実行監視機関が、国連制裁委員会である。
資産凍結対象リストの作成や、人道物資の購入契約を許可したりもする。
しかし、この制裁委員会も米露の影響下にあり、時に笑うしかないような事態に遭遇する。

★針がない!
人道支援のための物資購入契約を許可するに際して、意図的にその審査を遅らせることなど日常茶飯事である。
医療用物資の注射器はすんなり許可しておいて、注射針は何のかんのと言って許可を遅らせるということもあった。
凍死者が次々出ている中で、米国からの支援用毛布だけが届かないことも。
ロシアは陸路医療用物資をアフガンに運び込んだが、北部連盟の地域だけに支給した。

★死者の財産
アフガニスタンのタリバン関係者およびその関与する企業の海外資産の凍結のために委員会はリストを作成し、発表した。
しかし、その「タリバン政権関係者一覧」のリストの中には、すでに死亡している人やその職についていない人が含まれている。
アメリカは「タリバン関係者だけに限った制裁」と言っているのだが、実際には基準もあいまいで、いい加減に適用されているのがわかる。

★歩いて行け?
99年以来、国連制裁によって国際線の飛行を禁止されたものの、アフガニスタンのアリアナ航空は2機の航空機を国内線で使っていた。
機体の安全性の試験は、国際航空法にもとづき定期的に行うことが義務づけられているので、今年2月、そのチェックを受けるために、2機のうち一機をパキスタンへ航行させる許可を求めたが、国連制裁委員会は、これを拒否。
国連制裁委員会は、民間のアリアナ航空に安全性の確認されない危険な飛行を強制するつもりとしか考えられない。
アフガニスタンでは、老朽化した機体の使用で、1998年に2件の飛行機事故が発生し、計125名が死亡。
1月にも、航空関係者が国連主催の国際会議への出席するために国外への飛行許可を求めたところ、制裁委員会は「国外への飛行は禁止。出席したければ歩いて来ればよい」と通告したそうです。

★麻薬
一時、世界でも1、2を争うケシの産地だったアフガニスタンだったが、そもそもはムジャヒディン時代に米国とパキスタンが資金作りのために麻薬密売人を使って始めたとも言われている。
麻薬の密輸を各国は非難したが、国連は代替作物の指導援助もなく、ケシを止めろと言うだけで、ケシ栽培でわずかに食いつないでいる人たちに飢えて死ねと言うに等しかった。
しかし、タリバンがケシの栽培を禁止して以来、2000年春頃から国連の麻薬問題担当者もタリバンの努力を評価し始めている。
現在ではケシ畑がなくなったことが国連によって確認され、国連の公式報告にも明記されている。
しかるに、タリバンがケシの密輸をしていると言って非難し、それを理由のひとつに制裁を加えているのはまったくの自家撞着と言わねばなるまい。

以上のような状況で、タリバンがまだ国連を信用すると考えるのはいささか無理があるだろう。
バーミアンの石仏等の破壊は、偶像崇拝の禁止という教義によることもあるが、それによってアフガンへ世界の目耳を集めようという意図もあったのではないかと考える。
あの時、イランは仏像の買い取りを提案したが蹴られているし、狂躁的にではなく、実に冷静に計画が実行されたことは録画ビデオを見てもわかる通りである。



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