アフガニスタン近・現代史(詳説)


『ティールーム・ゼミ』に投稿された星様の記事を、ご本人のご意向により、各項目ごとにまとめて読みやすくしました。
内容の著作権は星様のご遺族に帰属します。



★アフガニスタン近・現代史・・・概説(01/10/11(木)13:13:54)
「イスラム教」の項目をまず読み終えてからこの「概説」、次の「詳説」と読み進んでいただきたいと思います。
ここでは、近代、現代におけるアフガニスタンの歴史の詳細を読む前に、大まかな流れをとらえておきましょう。

[論説の意図]
この一連の論説を読んで考えて欲しいことは、次の4点です。

 1.何故タリバンが出現したのか? そしてその実態は?
 2.イスラム世界の中でのタリバンの位置。
 3.大国や国連はどう動いてきたのか。
 4.アフガニスタンの一般民衆の実態と今後
その上で、日本は、あなたは、どうするべきか?もできれば考えて欲しいことです。

[概略]

(1)独立と立憲君主国家
18世紀後半、ロシア・イギリスはアフガニスタンをめぐって互いに覇権の触手をのばす。
双方の国に翻弄されながらも、独立して王政をしくが、両国の干渉を免れないでいた。
英国の指導もあって、国王のもと立憲君主国家として近代的政治形態を整えようとするが、
それに反発する勢力もあった。
第二次大戦後、イギリスがインドから撤退することによりバランスが崩れると、
ソ連は次第に共産主義勢力をアフガンの地に浸透させていった。

(2)ソ連介入
1973年、国王が海外旅行中に軍事クーデターが発生して共和制の国になる。
新政権は共産党色の強い政府で、ソ連の影響を直接受けるようになる。
しかし、当然のように反ソ・反共運動が起こった。
この抵抗運動により、国内の治安は悪化。
1979年12月、 ソ連はこれに目を付け、「アフガニスタンの治安を回復する」と言う名目で軍事介入。
ソ連は10万人以上の軍隊を率いてアフガニスタンに介入。
反ソ運動をしていたイスラム教徒たちがゲリラ戦でソ連に抵抗運動を繰りひろげる。
また、他のイスラム諸国の教徒たちもイスラムの名の下にアフガンに馳せ参じてゲリラ活動を展開した。

(3)ムジャヒディン闘争
1989年2月についにソ連は10年近く続いた軍事介入から撤退する。
その2年後、後ろ盾を失ったアフガニスタン共産党政権は崩壊、そのあとを引き継ぐ形で、
反ソ抵抗運動の指導者たちが連合して政権を発足させることになる。
彼らはムジャヒディン(=聖戦士)と呼ばれて国内外で期待を寄せられたが、
この連合政権はすぐに権力の座を巡る内紛によって崩壊する。
以後、内戦に発展し、 首都カブールを中心に激しい権力闘争が繰り広げられ
その間、パキスタン・イラン・中央アジア諸国に逃れた難民は400万とも600万とも言われている。

(4)タリバン
そんな状況が2年近く続いたある時、突如アフガン南部から新興勢力が現れた。
これがタリバンである。
タリバンは内戦に嫌気のさした民衆の支持もあり、すばやく各地方の主要都市を抑えることに成功。
1994年には隣国パキスタンもムジャイディンのヘクマティアル支援からタリバン支援に切り替えたため、
勢力を一気に拡大した。
生き残った他のムジャヒディン達は国北部に退き、北部同盟を結成して抵抗している。
当初、このタリバンが内戦に終止符を打つだろうと思われていたが、
厳しすぎる処刑方法、極端な女性差別、アヘン生産の奨励などの情報が西側諸国に流れるに至って、
西側各国のタリバンに対する反応は硬化。
タリバン政府は国土の大半を支配しているにもかかわらず、
国家として承認している国は、パキスタン・サウジアラビア・アラブ首長国連邦の三カ国だけで、
国連での代表権もタリバンにではなく北部同盟のラバニ政権にある。

では、これからこの(1)〜(4)について「詳説」でそれぞれ考察してみることにしましょう。
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