ヴェネチアの権力機構


数多くのオペラに登場する地、ヴェネチアにおける政治行政形態の概略を書いておきます。
ヴェネチア共和国は5世紀のアッティラの侵攻を逃れてアドリア海の干潟に建設された都市がはじまりで、その頃よりドージェを頂点に頂く共和国家の形態を取っていました。その権力機構が整ったのは13世紀初頭、十人委員会の常設された頃ですが、『マリーノ・ファリエーロ』の時代の14世紀中葉、『オテロ』の15世紀初頭、『ふたりのフォスカリ』の15世紀中葉と時代によって多少の変更を経、16世紀には非常に堅固な構えとなります。
ここにはその完成された形とも言うべき16世紀前半のヴェネチアの権力機構を図式化してみました。




図1 【議会内構成】
()内は構成人員数


まず、大まかに見てみましょう。
ヴェネチア共和国の社会構造は13世紀末頃から3層に分かれます。貴族、市民、庶民です。貴族だけが参政権を持っています。
貴族は主に貿易、土地、債権、官職などから収入を得ていましたが、その財力にはかなりの差があり、有力な貴族の子弟は要職を得、貧しい貴族は下級官吏を勤めることが多かったようです。
貴族とはいえ、課税においても、法の適用においても、一般市民との差はなく、公職についても無給、その上、もっともな理由なく議会を欠席すると、高額の罰金を取られたのです。とはいえ、単なる名誉職ということでもなく、利権もあったことは確かです。

市民は非肉体労働の家の出で、各種の権利、商業特権を有していました。
上級市民は貴族の補佐役である書記官職を勤めるものが多く、短期間の任期で移動してゆく貴族たちに行政上の知識や前例を教えて助ける役目を担っていました。これら官僚層は職務や婚姻などを通じて大貴族と結びつくことで政治的影響力を得、経済的利益にもつながっていったのでした。
非官僚市民は主に商人層で、商業利益の追求に専念していたため、国政に参加できないことにはあまり不満を抱かなかったようです。
庶民は上記2階層以外の人間で、主に労働者階級です。その中でも、ギルドに属する比較的裕福な庶民と、貧しい未組織労働者階級とに分かれます。

大評議会は25歳以上の貴族全員で構成されます。時代によって差はあるものの、1,000人から1,500人の男子です。これはもちろん立法機関で、時によっては法的機関としても作用します。
元首であるドージェも大評議会の選んだ41人の選出委員によって選ばれます。ドージェは終身任期です。
この大評議会の重要な部分を占めるのが『元老院』です。その中には元老院議員(追加議員を含む)と各部署の長官がいて、16世紀にはその総数は260名にのぼりました。

大評議会には評議会議員から選ばれた元老院に属さない官職があります。その中でも重要なものは以下の3役です。

サン・マルコ財務官…国家財政を管轄し、私人の財産・遺言も管理しました。終身任期で、ドージェに次ぐ名誉ある役職。この9人の中からドージェが選ばれることが多かったようです。
司法長官…国家の検察官。四十人委員会で起訴を担当します。十人委員会にも司法長官が参加することになっています。
審査官…国家の選挙管理委員。大評議会や元老院の不正な選挙活動を防ぐための役職。

この他に植民地総督や軍司令官なども大評議会のもとにあります。

この国は貴族も市民も国家に対する義務の念が強かったのも特長と言えます。対外的戦争になると、貴族や富裕市民階級の資産に応じて、特別課税や国債の強制割り当てで戦費を調達できましたし、金銭、実労を問わず提供を申し出る者が多く出ました。これは独裁者を許さない政治組織ゆえに、一般貴族、市民層の国政意識が活性化した稀な例と言えるでしょう。

この時代の国家組織以外での大きな権力はローマ教会です。ローマ教会は、法王以下、司祭,修道僧に至るまで国家から独立した存在です。また、10分の1税という国家組織から独立した財政組織を持っています。この教会の介入を阻止するために、ヴェネツィアはサンマルコ寺院を元首の個人的な礼拝堂であると主張してローマ法王の影響を排除します。そして、親族の中から法王が出た一族は全ての者が公職に就くことを許されませんでした。




図2 【元老院】


次に、元老院の内部を見ていきましょう。
ここで政治を動かすリーダーたちは十人委員会、四十人委員会、コレッジオの3つの組織のメンバー達です。

十人委員会

治安維持、国家安全保障、外交の任に当たります。
13世紀末に大評議会改革に反対してドージェに反旗を翻した大貴族などの脅威に対処するためにドージェを助けるする機関として発足しました。そもそもの発足の理由から、その性格はまず国家としての治安維持が最優先課題です。
十人委員会の構成要員は10人の委員とドージェ、ドージェを補佐する6人のドージェ評議員が正規のメンバーで、部外から司法長官が加わります。大評議会に所属する司法長官には票決権はありません。法的専門家としての参加です。
それに臨時委員15人が加わります。この臨時委員はもともとはなにか大事件があった場合に、15〜20人ほど人員確保のために十人委員会によって任命されたものですが、次第に常設化されていきました。マリーノ・ファリエーロ事件の時にはまだ常設されていなくて、この臨時委員が急遽選出されています。
10人の委員から3人の委員長が選出され、委員の中でリーダー的役割を果たします。委員長は妥当な理由なく会議を欠席した者を公安組織「夜の支配者」(シニョーリア・ディ・ノッテ)へ通報する義務もあります。
十人委員会におけるドージェ顧問官は十人委員会長の監督を行い、委員長による「夜の支配者」(シニョーリア・ディ・ノッテ)への会議欠席報告の監督も行っていました。また、十人委員会に報告される事件について事前に審議する権限も持っています。
なお、十人委員会の実務のうち、警察的実務は下部組織が担当していました。

四十人委員会

刑事最高裁判所に相当する機関で、元老院外の2つの民事最高裁判所(これも「四十人委員会」と呼ばれますが)をそれぞれ8ヶ月間勤めた40人の判事によって構成されます。
その任務は刑事裁判と総理府としての職務、地方行政管理です。
この中から互選で3人の長が選ばれ、シニョリアに参加します。しかし、十人委員会との関わりはドージェ、及びドージェ評議員との関係までで、他の十人委員会のメンバーと評議の席に着くことはありません。

コレッジオ

大評議会ではなく、元老院によって選出された議会運営組織です。ドージェと共に元老院を主宰し、議案提出を行います。
委員としての格は元老院幹事、本土委員、海事委員の順になります。

   元老院幹事…行政全体を担当。
   本土委員…イタリア本土での軍事担当。
   海事委員…海事を担当。政界に入ったばかりの有力貴族の子息がよく選出される役職。

ドージェ
国家元首で、最高権力者。
しかし、その権限は独裁を決して許さないよう、細かく制限されています。
例えば、ドージェの政治的行動に際しては3分の2の評議員の同意を必要とします。

ドージェ評議員

都市の各区から一人づつ、計6人の評議員が選出されます。

ドージェ評議会

「シニョリア」と呼ばれ、大評議会を主宰し、議案を提出し、また、コレッジオとともに元老院を主宰します。
ドージェ、ドージェ評議員、四十人委員会の長3人から構成され、共和国を代表する機関です。
ドージェ評議会とコレッジオが協力して国家行政を司ります。

各役職の任期

ドージェ  終身任期
サン・マルコ財務官  終身任期
司法長官  6ヶ月
審査官  1年
ドージェ評議員  8ヶ月任期
十人委員会・委員長  1ヶ月
四十人委員会・委員長  2ヶ月
元老院幹事  6ヶ月
本土委員  6ヶ月
海事委員  6ヶ月

終身任期の者を除いて、意外と任期が短いことに驚かれるのではないでしょうか。
一つの役職に長く在任すればするほど腐敗や怠慢が進むことをヴェネチア人は知っていたとみえます。

ヴェネチアは共和国とは言え、終身職の元首という点では君主制のようでもあり、貴族だけが政治を動かす貴族制のようでもあり、投票による選出という点では共和制とも言える独特の政治形態で、1100年の長きにわたって強固な国家組織を維持したのです。
しかも、各役職がお互いに複雑に監視し合い、制限し合うように組織が作られていますね。これは早い話が官僚国家なのです。

さて、皆さん、このような政治組織をどう評価されますか?
一旦就任すれば強大な権限を持ち、抑止力の働きにくい某国の大統領制を、私はふと思い出してしまいましたよ。
しかし、それはある意味、素直に人間を信じることができる国民なのかもしれません。
ヴェネチア共和国は、人間というものを信じないことから、このような複雑な政治形態を採用したのかもしれませんね。
一方わが国は、官僚国家と言われますが、どうも良い意味ではないようです。(笑)


【参考文献】
G.Ruggiero,The Ten;Control of Violence and Social Disorder in Trecento Venice,
     Ph.D.diss.University of California,Los Angeles,1972
S.Chojnacki,"In Search of the Venetian Patriciate;Families and Faction in the Fourteenth Century"
     in Renaissance Venice,London,1973
P.Burke,Venice and Amsterdam;A Study of Sventeenthcentury Elites,
     London,1974
クリストファー・ヒバート 著 横山 徳爾 訳 『ヴェネツィア』 原書房 1997年
斎藤 寛海 「都市の権力構造とギルドのありかた」
藤内哲也 「ヴェネツィア貴族階級における寡頭政と1582〜3年の十人委員会改革」  『ルネサンス研究』5号 1997年
永井 三明 『ヴェネツィア貴族の世界』  刀水書房 1994年


                     作者  星
                     編集・ページ製作  佐向ともえ


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