『オテロ』における人種問題の謎

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02/12/01(日)21:49:50 投稿者[]
タイトル[オテロにおける人種問題]

★オテロの属するムーア人の社会とは

ムーア人Moorとはもともと7世紀にアフリカ北西部に住んでいたベルベル人をアラブ人が侵略し、イス
ラム教に改宗させた後、混血が進んでいったものです。その一部が8世紀にイベリア半島へ侵入し、ムー
ア人と呼ばれるようになりました。 ラテン語ではマウリMauri、スペイン語ではモロスMoros、英語、
オランダ語ではムーアと呼ばれました。(スペイン人はフィリピン南部のイスラム教徒に対しても同様
にモロと呼んでしまっていますが・・・。)
現在、ムーア人と言えばモロッコ、モーリタニアなどアフリカ北西部に住み、イスラム教徒でアラビア
語を話す人々全体を指すことが多いようです。ムーア人が人口の8割を占めるモーリタニア(フランス
語でムーア人の国の意味らしい)国民を意味することもあります。
ムーア人が黒人だという観念は誤りで(シェークスピアの誤認?)、人種的にはコーカソイド地中海集
団に属する人種です。

イベリア半島は、8世紀以来ムーア人達の支配下に置かれ、イスラム教徒(ウマイヤ朝)に滅ぼされた
西ゴート王国の貴族達は北方の山岳地帯を拠点としてイベリア半島をキリスト教徒の手に奪回する運動、
国土回復運動(レコンキスタ、再征服)を起こします。
絢爛たるイスラム文化をイスパニア半島に花開かせたムーア人達も、12世紀にポルトガルを失った後、
半島の北半分を奪還されて次第に南部に追い詰められていきます。イベリア半島の南端に追い込まれた
イスラム教徒は、グラナダを首都としたグラナダ王国ナスル朝(1230〜1492)を建て、グラナダは
ヨーロッパにおけるイスラムの政治・軍事・文化の最後の拠点となります。
13世紀前半に、グラナダを除いてレコンキスタがほぼ完了すると、共通の目標を失ったカスティリア・
アラゴン・ポルトガルなどの諸国間では対立が激しくなり、14、15世紀には各国で混乱が続きますが、
フェルナンド5世とイサベル1世は1469年にその結婚によってカスティリア、アラゴンの統一を実現し、
1492年にはグラナダを陥落させてイスパニア半島からイスラム教徒を駆逐します。
オテロの時代は、まさにそのグラナダでムーア人達が最後の王朝をいまだ維持していた時期に当ります。


★当時のヴェネチアの様子と歴史的流れ

15世紀前半のヴェネチア共和国と言えば、その最も栄えた時期に当ります。
11世紀以来、十字軍の遠征窓口でもあり、また、貿易、特に東方貿易はヴェネチアの海運業なしでは
考えられなかったでしょう。領土も広がり、クレタ島、キプロス島などではワイン、木綿が生産され、
全般に農業は活発でした。
697年にはすでに総督(ド−ジェ)が住民投票によって選出され、13世紀末頃から少数の有力な貴族に
よる支配体制が確立され、行政組織は非常に堅固な物になっていきました。しかし、15世紀以降も文
化的にはヴェネチアはその後も優位を保ちますが、政治的軍事的国力は16世紀からは明らかに下降し
ていきます。
その最大の要因はオテロも戦ったオスマン・トルコの進出で、1453年のコンスタンチノープル占領
を境にヴェネチアの国力は下降しはじめるのです。オテロはヴェネチア共和国の最後の栄光の時期に将
軍となっていたわけです。

ヴェネチアの政治形態は選挙によって選ばれたドージェが最高権力者で、君主制の他国に比べて比較的
民主的で自由な形態が存在しました。 ドージェをトップに頂き、有力貴族からなる十人委員会が存在し、
主な法的、政治的決定を執り行なうという形です。
彼等は豊かな土地を持ち経済的にも繁栄していましたが、裕福になるにつれて地元の産業に直接関わら
ず、ヴェネチア市内に豪壮な居を構えるようになっていました。一種の不在地主のようなものですね。
そうなるとリスクのある事業を避け、平穏でぜいたくな生活を求めるようにもなります。
そういう市民社会では外来の職業軍人が軍の大半を担うようになっても不思議はありません。
ヴェネチアは独自の軍を持たず、そのほとんどを傭兵の組織に頼っていたのです。
これが、オテロのような外来の将軍が存在する理由で、ヴェネチアは多くの武勇を誇った傭兵隊長等を
手厚く処遇して来ました。

ヴェネチアは当時有数の国際都市であったことも忘れてはならないでしょう。
1423年頃、ベネチア本土の人口は約15万人でした。
しかし、45隻の大型ガレー船に11000人、120t以上の大型帆船300艘に8000人、3000
隻の小型帆船に17000人の船員が配置され、その他に船大工が1万6000人いたとされています。
総計、52000人の海運事業関係の人間をヴェネチア市民だけで賄えるはずがないことは明白です。
海運事業だけを取ってみても相当数の外来者をその社会に取り込んで来ているものと見なければなりま
せん。
ビザンチン帝国滅亡の結果、大量に流入して来たアラブ系東方人の存在も社会形成、文化形成の上で大
きな要素となって来たことも注目すべき点です。

もともとのヴェネチア市民でないということが軍内部、もしくは社会一般において差別の原因になると
いうことは、現代の人々が想像するほどにはありえなかったのではないかと私は推論しています。
ただ、オテロの場合のように貴族社会の娘との結婚となると、やはりなかなか無視できないものはあっ
たでしょう。婚姻関係が政治中枢での権力のために利用されることが多かったということもあります。
むしろ、有力貴族の娘と一将軍の社会的地位の差の問題と言えそうです。ヴェネチアは富裕な商人出身
者の牛耳る社会だったのですから。
しかし、ムーア人のオテロは決して野蛮人的に見られていたわけではなく、文化的にも相応の敬意を持っ
て接しられていたはずです。かのアルハンブラ宮殿をその文化の誇りとする民族なのですから。


シェークスピアの『オセロ』は『ロミオとジュリエット』同様、その地方の説話をもとに書かれたので
すが、どうしても英国風になっていることは否めません。
それがヴェルディによってオペラとなって里帰りしたような形ですね。
ロッシーニも『オテロ〜またはヴェネチアのムーア人』を作曲していて筋もかなり違いますが、その台
本作家のフランチェスコ・マリア・ベリオが元にしたのはシェークスピアの『オセロ』というよりも
イタリアのコセンツァ男爵による戯曲ではないかと言われています。


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