『ふたりのフォスカリ』の謎

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『オペラ・ティールーム』に投稿された記事に星様が少し手を入れて書き直されたものです。
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ヴェルディの6番目のオペラで、原作はバイロンの同名の戯曲。
台本はイタリア語で、フランチェスコ・ピアーヴェによるものです。
二人のフォスカリとは、父フランチェスコと息子ヤコポのフォスカリ家の親子をさします。

舞台は1457年のヴェネチア。
国事犯として捕われているヤコポとヴェネチアの高潔で知られるドージェ(総督)の父を、フォスカリ家の政敵ロレダーノが追い詰めていきます。
裁判で、公人と私人としての両立場の相克で悩む父総督の苦しみが浮き彫りにされます。
ヤコポの妻ルクレツィアは必死に方策を探るものの、最後、ヤコポの冤罪が晴れた時には既に遅く、
ヤコポは流刑地へ行く船で死に、父親も失意の内に息を引き取ります。
ロレダーノは最後、手帳に「ここに復讐はなされた」と書き込んで幕。

非常に政治的な陰謀劇で、史実に基づいているようです。
1844年にフェニーチェ歌劇場のために書いたこの作品は、そのためにフェニーチェにはボツにされてしまいました。
ずいぶん昔のこととは言え、ヴェネチアの恥部を抉るような題材ですから、好まれなかったのも無理はないのかもしれませんね。
結局、11月3日にローマのアルジェンティーノ歌劇場で初演されました。


このフォスカリ家の物語は、史実では以下のような経緯をたどっています。

1423年4月15日、フランチェスコ・フォスカリ、ドージェ就任。

1445年3月11日、十人委員会はドージェがヤコポに恭順を説得する事を勧告します。

1446年11月28日にヤコポ・フォスカリがトレヴィーゾ地方に追放されています。

1447年9月13日、父フォスカリが息子の追放の取り消しを嘆願して勝ち取ります。

1451年1月3日、アルモロ・ドナの死でヤコポが告発され、新しい裁判が始まりました。

同年3月26日、ヤコポ・フォスカリはカンディアに追放されます。

1457年の1月12日、ヤコポ、追放中に死亡。

同年10月21日に十人委員会がフランチェスコ・フォスカリの廃位を決定、同23日に廃位。

10月30日にパスクォーレ・マリピエーロがドージェとなった直後、11月1日に前ドージェは亡くなっています。

1461年にはフランチェスコ・フォスカリの未亡人が、ペスト流行を理由に、孫ニコロを連れてヴェネツィァから出る許可を求めていることが資料に残っています。

こうして並べてみるとなかなか面白いですね。
基本的に非常に史実に忠実なオペラであることがわかります。
ただ、裁判の時期は1451年なのに、1457年とされ、そこからヤコポ死亡、ド−ジェ退位、そして直後の死亡まで日を置かずに起こったことのように設定されています。
これは、オペラとして緊張感を持続するための妥当な処置でしょう。
オペラでは判決の場に駆け込んで恩赦を願うルクレツィアの手に引かれていたはずの子供が、資料によると少なくとも一人は生き残ったらしいのも救いですね。
元ド−ジェ夫人も健在だったようですが、ヤコポの妻ルクレツィアの消息は見当たりません。

ヴェルディの作品は16作目のリゴレットあたりから以降のものがよく上演されますが、初期のマイナーな作品群の中ではこの「二人のフォスカリ」は音楽もしっかり書けていて秀作だと言えるでしょう。
印象的な旋律をチェロとヴィオラのみにまかせて シンプルな伴奏にした部分があり、後の「リゴレット」での刺客スパラフチーレとのシーンが類似型として思われました。
もともと登場人物をこれ以上掘り下げようがない直線的なストーリーなので、いささか単調であることと、テーマがあまりに暗いと言うことが「二人のフォスカリ」が上演されにくい原因ではないでしょうか。


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