『蝶々夫人』の謎

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プッチーニ作曲の歌劇 『蝶々夫人』、これほど日本人に良く知られたオペラもないだろう。
明治時代初めの頃の長崎が舞台。芸者に身を落とした蝶々さんが、アメリカ海軍士官ピンカートンに落籍され、やがてピンカートンは母国に帰るものの、蝶々さんは産まれた息子と女中スズキと一緒に丘の上の家に住み、彼を待ち続けて3年。やっと帰ってきたピンカートンは故国で結婚して妻ケイトと一緒の赴任。蝶々さんは息子を引き取ると言われ、絶望の果てに一人死を選ぶ・・・というお話。
日本では、このオペラを見たことがない人でも大体の筋は知ってるし、「ある晴れた日に」というアリアは、まるでオペラの代名詞のように流通している。
でも、日本ではよく上演されるのに、最愛のオペラだと言う人が意外に少ないようだ。ご当地物って、点が辛くなってしまうのかも。
私も『蝶々夫人』というオペラが好きだとは言えない。だいたい、日本人にとっては映像でも舞台でも違和感ありすぎの舞台設定や演出が多すぎるからかもしれない。その最たる物のひとつが、ポネル演出、カラヤン指揮、ウィーンでのフレーニ、ドミンゴのDVD。これはもう、目が点になってしまう。
違和感は演出だけでなく、筋立てにもあるようだ。非常にシンプルな筋なのに感情移入しにくいのは、ピンカートンに対する蝶々さんの愛に共感できないからかも。
それなのに、このオペラ、良い演奏に当たると本当に泣ける。特に後半、ケイトとのやり取りから終幕にかけて。これはもう、音楽が泣かせているとしか思えない。
しかし、聴けば聴くほど謎が多くて、解明しないことにはどうにも落ち着かない。

 プッチーニの執着の謎

プッチーニはもちろん、原作の「蝶々夫人」の作者、ジョン・ルーサー・ロングも来日したことはない。しかし、ロング氏の妹のコレル夫人は宣教師の夫と一緒に中国に赴任するはずだったのだが、途中で病気になって着任先を日本に変えたそうだ。それが1886年(明治19年)。夫のアーヴィン・コレルは最初横浜に赴任後、長崎の鎮西学館の5代目の校長に就任して、長崎に暮らしたとか。
ロングにいろいろな長崎の話をしたのは、コレル夫人が一時期国でアメリカに帰った時で、蝶々さんのモデルになった芸者の話もその時に伝えられたようだ。夫人が話したものは知り合いの商人から聞いた実話だったそうだが、アメリカの海軍士官ではなく、ロシアの海軍士官に捨てられた女の話で、なぜアメリカの士官に変わったのかも興味をひく。一応、二枚目役だから、自国の士官としたかっただけかも知れないけれど・・・ 。
プッチーニはダヴィッド・ベラスコによって戯曲化された「蝶々夫人」の舞台を見てオペラ化を思い立ったそうだ。
しかし、プッチーニが見た舞台はロンドンでの公演で、英語による物だったはずなので、英語がわからない彼が本当にどこまで内容がわかっていたのか疑問。でもプッチーニは楽屋に押しかけてその場でオペラ化の許可を求めたのだ。かなりの感激症体質だったのかもしれない。
初演は一幕が長すぎて退屈だったせいか、また異国情緒ありすぎで違和感を持たれたせいか不評だったが、プッチーニは改訂を重ねる。2幕も2場に分け、ピンカートンも後悔させたりして和らげた。
プッチーニは、よほどこのオペラに愛着を持っていたようだ。蝶々さんは『ラ・ボエーム』のミミと双璧の、プッチーニ好みの可憐で一途なヒロインと捉えられていたのだろう。

 ピンカートンという男の謎

オペラ史上、最も憎まれる役ではないだろうか。METでの『蝶々夫人』では、観客にはさんざん「悪いヤツだ」と言われ、テノール歌手の出来は悪くないのにブーが飛んでたというような目撃談もあった。
『カヴァレリア・ルスティカーナ』のトゥリドゥもピンカートンに匹敵するくらい酷い男だと思うが、彼は心を病んだ戦争帰還兵だとも考えられるし、最後死んでしまうのでまだマシなような気になってしまう。
それに比べるとピンカートンは最初っからだます気で、おまけに能天気に明るく、最後になってどんなに後悔しても許しがたい気がするのだ。蝶々さんが3年も待ち続け、しかも子供がいるとスズキが告げると、彼はいたたまれずに逃げ出す。妻のケイトを領事と共にその場に残して。自分のしでかしたことから逃げるだけ。
はい、ここで私は、ピンカートンはマザコンの子供だと言いたい。
代わりにケイトが子供を引き取る交渉もして、後始末に追われるのである。この夫婦、妻がしっかり夫の世話を焼いてるじゃないの。

どう見ても良いところのないピンカートンだが、ちょっと視点を変えてピンカートンの目から見てみよう。
まず、アメリカという国はピューリタンの国。現在よりずっとピューリタニズムは強かっただろう。謹厳実直、清廉潔白を重んじる傾向があるが、ピンカートンもそういう風土、そういう家庭で育ったものと思われる。そして、アメリカ海軍も同様の気風を持っていたようだ。厳格な家庭、風土の中で育ったお坊ちゃまが、海のかなたの非キリスト教国にやってきたわけである。
よくあることだが、それまでの抑圧から解き放たれて、自由を謳歌したくなるのも無理はないかもしれない。理解しがたい風習の日本という国で、強い米ドルに支えられて、女を囲ってままごとのような息抜きの場を求めたというところではないか。
彼のピューリタンとしてのモラルは、あくまでキリスト教徒の白人女性に対してのもので、貧しい未開国の黄色人種の女性に対してのものではなかったという見方もある。人種差別だと怒ってもしようがない。当時は帝国主義全盛の時代、欧米列強国にとって弱小国など、殖民支配を狙う対象でしかなかったのだから。
女衒のゴローの仲介ということもあり、蝶々さんは所詮娼婦と見られていたと言ってもいいだろう。ピンカートンにとっては、契約で買った異国の妾に過ぎないのだが、蝶々さんが本気になってしまったのが悲劇のもとだった。彼にしてみたら、何でこんなことになるんだという思いがあるのではないだろうか。

う〜ん、それでもやっぱり、ピンカートンを許せない気になるのは、私が日本人の女だから?

 蝶々さんという女の謎

さて一方、蝶々さんはどういう女なんだろう。
歳は15歳。長崎の色町で芸者をしていた。オペラの中の記述から、父親は大村藩の裕福な士族でしたが、西南の役で薩摩方に加担して、切腹させられたらしい。当然、家は没落し、食うにも事欠いて蝶々さんは芸者に出されたのだろうと思われる。
士族の娘が芸者になってうまくいったという話はあまり聞かないけれど、蝶々さんも周りの芸者衆と折り合いよくいっていたとは思えない。ピンカートンに落籍されて結婚式風の宴席に集まった芸者衆は、陰でけっこう辛らつな言を放っているのだから。
仲間にも恵まれず辛いお座敷勤めの中で、ピンカートンの明るさや口先のうまさにすっかりその気になってしまったというのが本当のところではないだろうか。日本の男にはない臆面もない愛情表現(どこまで本気かは実は別だけど)、レディファーストの習慣によって培われた優しげな行動様式、そういうものにころっと参っちゃったとしても不思議はないかも。なんせ、まだまだ15歳の若さなのだ。もっと歳のいった日本の女たちがラテン系の国へ行って男の口先の優しさにだまされて身の破滅ってなこと、現代でもあるらしいから。
いえ、何よりもピンカートンの「自由闊達」な雰囲気に、蝶々さんは惹かれたのかもしれない。
自分の境遇が金で売り買いされる物であるとはわかっていても、蝶々さんは愛を信じてしまったのだ。いや、その愛を信じないでは生きていけなかったと言うべきか・・・。
しかし、一途な彼女はどんどん自分を追い込んでいってしまうのだ。改宗ということの重大さをわかっていたのか、いなかったのか。そう、蝶々さんはピンカートンと同棲する前日にキリスト教に改宗してしまうのだ。ピンカートンが信じる神を自分も信じると言って。
確かに女は嫁いだ先の宗派に自動的に変わるのが普通だったが、相手は仏教の宗派ではなくキリスト教なのだ。それでも、彼女の中でちゃんと割り切りができていたものと思いたいのだけど・・・。結局、その改宗の事実がばれて親類縁者からさえも勘当されてしまうのだ。
とはいえ、陰で悪口ややっかみを言う人たちと縁が切れて、私ならかえってすっきりすると思うのだけどね。

そうして、ピンカートンが去った後も、3年もの間、彼女は待ち続ける。彼が去る時にはまだ生まれていなかった息子も、既に2歳半くらいにはなっていたはず。(オペラでは、この子供役が大きすぎるのが不満ですが、2歳半の子供を舞台に乗せるのは難しいのでだろう。)
周りがいくらいさめても、蝶々さんはまだピンカートンが自分の元へ帰ってくると信じている。ヤマドリという公爵が求愛しに来てもすげなく追い払ってしまう。(ま、これも女衒のゴローの仲介ですから、求婚ではなく妾にという話だろう。)
諸般の事情から見て、蝶々さんは働いているわけではないので生活費をどうしているのか気になるのだが、ピンカートンが別れ際にある程度まとまったお金を渡していたものと思われる。とはいえ、ピンカートンが帰ってくるのが3年後ではなく5年後、10年後だったらどうなってたかしらね・・・。
実は、蝶々さんはそのあたりでもうかなりおかしくなってたんじゃないかという説もある。確かに、あの「ある晴れた日に」のアリアは、狂乱のアリアと言ってもいいのではないかしら。期待と想像と現実がめちゃくちゃに入り混じっているんだもの。
自分で選んだ道とはいえ、蝶々さんは追い詰められているのだ。
だからこそ、ピンカートンの船が入港してきた時の蝶々さんの喜びようがあまりにも印象的なのよね。桜の花を敷き詰めて彼を迎えるなんていじらしい・・・。きっともう、贅沢な宴を張るお金もなかったから? でも、その桜の花を末期の褥として、蝶々さんは死を選ばざるを得なくなるというのも、哀しい。桜が武士の娘の死を彩るというのは、とても意味深に思える。

 結婚式の謎

第一幕で行われる蝶々さんとピンカートンの結婚式も、大きな謎だ。
掲示板では、「蝶々さんと結婚式を挙げたピンカートンがケイトと結婚しているのは重婚罪ではないか?」という意見が出た。
第1幕で領事が、信じきっているのに騙すのはむごいと意見していますから、結婚式をやってもちゃんと結婚届を出したとは思えない。
そもそも、未成年だから、家長または後見人の承諾が必要だったはずだが、父も亡くなり、親戚一同から勘当された蝶々さんの婚姻届に署名する人はいなかったのではないか。
おまけに、結婚式は教会でではなく神式で執り行われていたから、教会記録から結婚証明書を取ることもできない。そのため重婚罪で訴えるのは勝ち目がないという意見もあった。
当時の長崎では、洋妾(ラシャメン)として、日本に駐在する外国人の軍人や商人の現地妻となった女性が多く存在していた。その女性達がどういう風に同棲生活に入っていったのかと、ちょっと調べてみた。開国前後の混乱期に長崎居留の外国人と日本人女性との同居による問題発生を管理したい長崎奉行が公認して届けを出させていたらしい。もしかすると、蝶々さんの結婚式でサインされた書類は、その届出用紙だったかもしれない。あるいは、単にピンカートンとの契約書だったかもしれないが。


 宗教と子供の謎

私、蝶々さんはあまりにも救いのない悲劇なので、見ていてとても辛い。
キリスト教に改宗しても結局救われずに終わった蝶々さんは、最後には神の禁じる自殺と言う手段しか残っていなかったのだもの。
改宗ということの意味がポイントになってくると思う。
すべてを捨てて愛したのに、すべてを(魂の救済まで)失った蝶々さん、哀れすぎる。
私が蝶々夫人で一番胸をつかれる思いを味わうのは、最後に子供に向かって「小さな神様」と呼び、「天高き楽園より降りて来た私の坊や」と言うところ。
自分が天の高みから見守っていてあげるとは、彼女には言えないのよね。
子供が金髪で碧眼だというのも、遺伝的には稀なはずだが、そのために蝶々さんは子供の未来には明るい希望が持てるのだろう。
だからこそ、彼女は息子をピンカートン夫妻に託すことを承認したのだと思う。
改宗したはずのキリスト教は蝶々さんを見捨てるのだけど、子供は神の恩寵を受けられると信じているから、終幕のあの言葉が出てくるのだろう。
私には、男に捨てられたことよりも、神に救われなかったことのほうが哀れに思える。

 演出と音楽的伏線

『蝶々夫人』の劇としての初演は、確か当時最新鋭の電気照明による物だったはず。舞台効果は画期的な飛躍を遂げたのではないかと思う。
プッチーニはそういう照明効果も大いに考慮して、エキゾチックな東洋趣味を前面に出してきたのだと考えられる。初演の不評は、やりすぎたからというのも原因のひとつだったかも。ま、1幕が長すぎて冗長だったからという説が有力だけど。

『蝶々夫人』の第1幕で道具類をピンカートンに見せる場面があるのだが、その時なぜか「さくら、さくら」のメロディーが流れている。
以前は日本の物品が出てくるからかと思っていたのだが、どうもそれだけではなさそうだ。
そこで父親の短刀も取り出すので、「武士=さくら」 の図式か、もしくは 蝶々さん自身の死も暗示していたのだろうか。
音楽的にも伏線が多いオペラだ。
最初は気づかずにいたものが、何度か聞くうちにひとつづつ謎が解けていくような面白さがある。気がつかなくても無意識のうちに影響されているのではないかと思う。
「さくら」ひとつとっても、いろいろな読みが出来る。

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