『ラ・ボエーム』の謎

この『ラ・ボエーム』というオペラは私たち団塊の世代にとってはなぜか郷愁をそそる物で、背伸びしながら古い狭い下宿屋で夢を語り合った仲間達を思って胸を熱くする熟年層も多いのではないだろうか。
今みたいにバストイレ付きワンルームマンションに住んでいる学生なんてまずいなかった時代。

このオペラも謎の多いオペラである。
かつてのオペラティールーム掲示板でも、ずいぶん多くの投稿があったものだ。
それをまとめた上で、私の私見も加え、『ラ・ボエーム』の謎について書いておこう。



●オペラ 『ラ・ボエーム』について

作曲:ジャコモ・プッチーニ
台本:ジュゼッペ・ジャコーザとルイージ・イルリカのコンビによる。
原作:アンリ・ミュルジェールの小説『ボヘミアンたちの生活』
作曲年:1893〜95年

<主な登場人物>
ミミ(ソプラノ):女主人公。貧しいお針子。
ロドルフォ(テノール):主人公。詩人を志す若者。
マルチェロ(バリトン):ロドルフォの親友。画家。
ショナール(バリトン):ロドルフォの親友。音楽家。
コルリーネ(バスorバスバリトン):ロドルフォの親友。哲学者。
ムゼッタ(ソプラノ):マルチェロの恋人。

<時と場所>
1830年ごろのパリ、カルチェ・ラタン地区(学生の多い地域)。
クリスマス・イヴに始まり、翌年春までの物語。

<このオペラの特徴>
神様も王様もお姫様も出てこない、とてもリアリティーのある設定。四人の若く貧しい芸術家と、極貧のお針子や歌手。当然、使われる言葉も庶民の言葉で、大仰な韻を踏んだ詩ではない。
台本の各幕冒頭には原作から引用した序文が付いていて、状況の理解を助けている。しかし、オペラ台本は原作とはかなり違う描かれ方をしている部分も多い。(例:原作のミミとフランシーヌをオペラではひとりの女性ミミとして描いている。また、主人公ふたりの出会いは、オペラでクリスマスイブだが、原作では春。同様にヒロインの死は春と秋の違いがある。)
4幕からなるオペラで、各幕はその雰囲気が明確に異なる。また、挿話はドラマティックな物とコミカルな物に分かれ、その対比が顕著。

<あらすじ>
第一幕:若く貧しい芸術家の卵たちがロドルフォの部屋に集まり、カフェに繰り出そうとしている。3人の仲間を先に送り出した詩人ロドルフォのもとにお針子ミミがロウソクの火を借りに来る。恋の芽生え。
第二幕:ロドルフォ達と一緒にミミもカフェに出かける。マルチェロの元恋人ムゼッタが金持ちのアルチンドロと一緒に入ってきて、嫉妬と駆け引き。結局、ムゼッタはマルチェロを選び、アルチンドロに会計を押し付けて、みんなで無銭飲食とあいなる。
第三幕:2ヵ月後、ミミは酒場に住み込んで看板を描いているマルチェロに、ロドルフォが冷たくするのだと相談に行く。折りしも酒場からロドルフォが出てきて隠れるミミのそばで、マルチェロについには本心を打ち明ける。ミミを好きだが、彼女は不治の病で貧乏な自分にはかえって彼女の病を重くしているという。聞いていたミミは別れを告げるが、二人は春までは一緒にいようと言う。
第四幕:二人は別れ、ミミは子爵の息子の世話になっていたが、最期はロドルフォの許で死にたいと逃げ出したところをムゼッタが見つけて連れてくる。仲間達の友情。ミミの死。


●ミミとロドルフォの出会いの謎

★部屋の位置


二人の部屋は、パリのカルチェ・ラタン地区にあるアパートの屋根裏部屋。アパートの建物は、一階が商店や飲食店で、その上の中層階が一般の住居、更に上の階が単身者や学生のための比較的狭い屋根裏部屋という構成が多かったようだ。屋根裏部屋といっても住居として充分な天井高があり、窓が大屋根に取り付けられた傾斜窓やドーマー・ウィンドウ(屋根窓)であることが通常。
二人の部屋の配置は隣同士(階段踊り場を挟んで向かい同士?)で、ミミが屋根裏階の東側、ロドルフォが西側の部屋。これは、オペラで語られる言葉から類推することができる。
アリア「我が名はミミ」で、「あちら側の小さな白い部屋で屋根の上と空を見て暮らしている」、また「雪が解けて最初の太陽は私のところに来る」と歌っている。このことから、ミミの部屋は朝日の差し込む東側の屋根裏部屋であることがわかる。
また、終幕、ロドルフォはミミの横たわるベッドに夕日が当らないように窓にシェードを降ろしているので、ロドルフォの部屋は西側の屋根裏部屋であると推察される。
アパートの断面図と屋根裏階の平面図を描いたので、載せておく。階段の形状は昔写真で見たパリのアパートの階段を参考にしたが、ドアの位置は、オペラのト書きから推測した。すなわち、第一幕で、降りていく仲間を見送るロドルフォが「踊り場の上で、開いた扉の近くから、蜀台をかざして」というト書き。この位置が最も自然だろう。



★ロウソクの謎

ほんの数十年前のパリでも、アパートの公共部分は真っ暗で、エレヴェーター横のスイッチを押すと少しの間だけ灯りがつくというような状態だったとか。ましてや1930年頃のパリでは、人感センサーはおろか電気の供給もない時代だから、頼れるのは灯油ランプやロウソクくらい。
1幕で男達がロドルフォを残して先に階下に降りていく時、「真っ暗だ!」とか「忌々しい門番め!」などと言っているので、ここの門番は油をケチって階段の常夜灯をつけていなかったと思われる。案の定、コルリーネが足を踏み外したらしく「コンチキショウ!門番のヤツめ!」と叫んでもいる。
ロドルフォのアパートには1階に門番がいて、階段を登っていく居住者や訪問者にはロウソクを渡すことになっていたようだ。

第一幕で、ミミがロドルフォの部屋にやって来てロウソクの火が消えてしまったと言うのだが、現代の演出家の中にはこれをミミの策略のように考える人たちがいる。
いわく、ミミは最初からロドルフォをたらしこむつもりだったから、ロウソクが消えたなどと言って隣の部屋から来たのだ、とか、隣の部屋のドアまで多少暗くても行き着けないはずがない、とか・・・。
前者には、ミミが最初部屋に入ることを断った事実を指摘しよう。そして、息が切れて蒼ざめ(なにしろ、ミミは肺結核なのだ)、気を失ってしまったのは、作為としてはあまりにやりすぎになってしまうことも。かわいそうに、ミミはクリスマスイヴだというのに働いていて、やっと家に辿り着いたところだったのだ。
後者には、まったく明かりのない夜、足元も見えない中で自分の部屋のドアを探し当て、鍵をあけることがどれだけ困難か、試してみることを勧めたい。

更に意地悪な演出家はこんなことも言うだろう---ロウソクを持ってるのにポケットにマッチは持ってないなんてあり得ない。ロウソクの火を借りるなんて、引っ掛けようとしてる証拠。
ああ、便利な現代生活の中にいてはわからないのかもしれないけれど、当時簡単に持って歩けるようなマッチなんて便利な物はなかったのだ。
フランスで黄燐マッチが売り出されたのは1831年。この黄燐マッチは摩擦や衝撃で発火してしまう危険が大きく、毒性も強い物だった。しかも、黄燐マッチがあったとしても売り出されたばかりでまだまだ高価なものだったはず。1830年頃のミミがマッチを携帯していたというのは、かなり無理があるだろう。現在のような赤燐を用いた安全マッチが普及するのは、1855年以降なのだ。ちなみに、硫化燐を用いたマッチも、流通するようになったのは20世紀初頭。
ミミが来る前、男達が暖炉の薪に火をつけているが、その時も、火口を使っている。(「火口はどこだ?」と言っているのが書いてある。)当時、火口箱(ほくちばこ)に入れた火打石と消し炭やおがくずで火を起こして利用していたのである。

★恋の駆け引き

社会の最底辺で暮らすグリセットと呼ばれた女達は、職を持っているいないにかかわらず、時に金持ちのパトロンの愛人になったり寄食したりということもあったようだ。娼婦ではないが、素人売春予備軍的に見られる存在。映画「ココ・アヴァン・シャネル」でも描かれているが、お針子だったココ・シャネルもまた、若い頃、エティエンヌ・バルサンの愛人となって援助を受けていたことが知られている。貧しい女性が援助もなく独力でのし上がるのはほとんど不可能だった時代である。ミミやムゼッタもそういう階層の女だったということは否定できない。実際、二人とも金持ちのパトロンが世話していた時期があったわけだし。
同じように貧乏でも、ロドルフォには帰る実家があり、今の生活は自ら選び取った若い時期の放蕩でしかない。頼れる親兄弟もいなくて日々食べるにも事欠くミミに比べれば、やっぱりロドルフォはお坊ちゃんなのかも。
そもそも、オペラでのミミ像は、原作のミミとフランシーヌの両方の要素を持っている。(音楽之友社の「オペラ対訳ライブラリー」の「台本作家の序文」および「あとがき」参照。) いかにもグリセットらしい華奢で浮気な白い手のミミと、貧しいお針子として愛を貫き結核で死んでいくフランシーヌ。
しかし、ミミがグリセットだったとしても、彼女ほど貧しく孤独ではなくても薪も買えずに震えているような貧乏芸術家など、少なくともパトロンとして求めるような対象ではない。しかし、みんな楽しそうにしているクリスマスイヴにひとり冷たい自分の部屋に戻るのもわびしい、ふと見るとお隣さんの部屋から明かりが漏れている・・・なんとなく人恋しくなってしまうというのもアリかな。
むしろ、そんな暗い希望のない境遇の中でも、ミミは本当の恋の予感に胸をときめかしたのだと思いたい。

出会いの場面で策を弄するのは、むしろロドルフォの方なのである。ま、何ともかわいい策で、ミミも気づいているのだが。
二人のロウソクが風で消えてしまった時、マッチはなくても暖炉の火は燃えているはず。ロドルフォはミミのロウソクに火をつけようと思えば簡単につけられたはずなのに、二人は暗闇の中で床に落ちた鍵を探すことになるのだ。おやおや・・・。しかも、ロドルフォは鍵を見つけたのにミミに渡さずポケットに入れてしまう。そして探しているふりをしながらミミに近寄っていき、手が触れ合うや離さずしっかり握ったままアリア「冷たい手」を歌うことになる。そこから先は、二人とも鍵探しなんか忘れて恋に夢中になっていくのだ。
ミミは自分の部屋に帰れないが、どうせカフェに行ったあと翌朝までご一緒だったのだから別に困らなかったはず。翌朝、ロドルフォはミミの鍵を床に落としておいて、やっと見つけたとでも言ったのだろうか。ミミは先刻ご承知で、死の直前、ロドルフォにその時のことを話している。
若い恋人達にはよくあることで、好きな娘の乗る列車に合わせて早起きして乗って話しかける機会をうかがったり、相手の行く催し物に出かけて偶然を装って話しかけたり・・・胸に覚えのある人も多いのでは?
そういえば、ミミも、ロドルフォが詩人だと知ると、私も詩が好きだなんて言ってたわね。


●別れと延期の謎

第三幕、ロドルフォが出て行ったきり帰らない。ミミはマルチェロにロドルフォの嫉妬から喧嘩ばかりしているのだと助けを求める。
なぜ、ロドルフォはミミに嫉妬するのだろうか?
ロドルフォは知っているのだ。美しいミミがグリセットの境遇であっても自分にはふさわしくない高嶺の花だということを。ミミはすぐにでも立派な愛人を得られるのに、自分は暖炉にくべる薪も買えず、寒い北風が吹き込むに任せている。そして、ロドルフォは問い詰めるマルチェロに、ミミは肺病で死にかけているのだと言っている。自分を甲斐性なしの男だと自嘲する思いと、言い寄る男の影がちらつくミミへの嫉妬・・・ロドルフォは壊れかけてる。
しかし、それを漏れ聞いたミミは、自分の死期を悟るのだが、実に見事な対応をする。自分の死の恐怖は脇において、ロドルフォの心情をすばやく理解し、別れを決めるのだ。自分の存在が相手を苦しめるだけだとわかった時、女には二つの道がある。男にありもしない強さを求めて二人で甘美な地獄の道を歩むか、現実に耐えられない男の心情を優先してすべてを諦めるか。
ミミはずっと孤独に耐えて生きてきた女だ。何とかして貧乏な暮らしから這い上がりたいとは思っていただろうが、金持ちの男は自分の若い身体が目当てだということもわかっている。そんな中で真実の愛、心のあたたかさをロドルフォに見出したのだ。せめてその愛だけは美しいままに思い出の中に生かしておきたいと思ったのではないだろうか。愛した男が厳しい現実の中で壊れていくのは見たくないと思う。そして、心も凍るような究極の孤独に、ミミはまた戻っていく決意をする。それがミミの愛。
ロドルフォはボヘミアンの生活を楽しんでいるだけで、それなりにちゃんとした教育を受け、実家は中産階級の飢え死にしなくてもいい家系の出身者、すなわち、ミミから見たらお坊ちゃんなのだ。一緒に貧乏なまま楽しく暮らすことはできても、病気や死というようなシリアスな現実に対処するほど強くはない。いや、こういう状況の時に相手のすべてを胸に抱きとめてやれる男なんて、本来そんなに多くはいないのかもしれない。いつの世も、男は現実を直視できない生き物らしい。別れを決めた後の二人の言葉がよく語っているではないか。ロドルフォは「さらば、夢のような人生よ、君の笑みに安らぐ夢の生活」、対してミミは「さようなら、咎めだてと焼きもち!疑いの心」・・・男はどこまでもきれいな面しか見えず、女は現実から逃げられないのだ。
しかし、ミミとロドルフォは別れようと言いながら、その時期を春まで延期している。なぜ、すぐに別れないのか、別れると決めて一緒に住むなんて、どんな思いで数ヶ月後を過ごすのかと、切ない思いにかられてしまう。
しかし、パリの冬は厳しい。心身ともにひとりぼっちでは、別れの辛さは何倍にもなってしまう。ロドルフォと違って、気遣ってくれる友も親族もないミミにとっては特に。せめて冬をしのぐ肌のぬくもりだけでも、と考えても不思議はない。


●仲間たち

このオペラは、ミミとロドルフォの愛を縦軸に、マルチェロたち3人の男たちの友情を横軸に描かれている。
マルチェロとムゼッタも恋人だが、ミミ、ロドルフォのペアとは対照的な描かれ方だ。
ムゼッタは明るくおしゃれで気まぐれ、多くの男達を手玉に取っている様子で、いかにもグリセットらしい感じ。おかげでマルチェロと喧嘩が絶えない。
ミミも美人でおしゃれだが、小柄で華奢で貴婦人のような上品さを持っている。
マルチェロは画家の卵で、ロドルフォと一番の親友のようだ。1幕でも4幕でも、マルチェロはロドルフォの部屋に居候みたいに押しかけてきていて、そこで絵を描いている。
ショナールは小才のきく男のようで、音楽家。4人の仲間の中では最も現実家で世渡りがうまそうだが、稼いだ金を仲間との飲食費などに当ててしまう人の良さ。
コルリーネは哲学者で、地味な扱いをされているが、最も落ち着いた安定感のある存在。

第四幕で、この仲間達が取る行動が興味深い。
ムゼッタは気まぐれで奔放な性格だが、情が厚く姉御肌のところがある。マルチェロにイヤリングを渡して医者と薬に変えてこいというのも、ミミが欲しがるマフを自分の部屋に取りに行き、ロドルフォからの贈り物だと言うのもムゼッタ。
マルチェロもムゼッタと喧嘩ばかりしているくせに、素直に言うことをきいている。
ショナールはここに至ってはどうしてやることもできず、ただ立ちすくんでしまう。
コルリーネは自分の古外套を脱いで質屋に行く。彼の唯一のアリア「我が古き外套よ」が私は好きだ。彼の実直な性格が良く表れている。オペラの舞台ではよく下着姿にさせられてしまうかわいそうな役だが、外套の下に下着しか着てないというのも変なのではないか?だいたい、そんな格好でパリの街を歩いたの?! 演出家さま、せめてシャツとズボンくらいは着せてやってね。


●マフの謎

ミミはその死に際して、マフを欲しがる。マフというのは、よく貴婦人なんかが両手を突っ込んでるふわふわした筒状の物である。手を温める手袋代わりとも言えるが、実は中がポケット状で、ハンドバッグ代わりにもなるのである。私が小さい頃、なぜか日本でも流行ってたっけ。
第4幕でミミはベッドに寝てるんだから、毛布の中に手を入れれば充分あったかいはずなのに、なぜにマフなんか欲しがるんだという人は多い。実際、マフは寝る時に使う物ではない。
しかし、マフは手をあたたかく保つためということもあるが、むしろ女のおしゃれの代名詞なのだ。今でもハンドバッグは女のおしゃれのキーポイントである。
「行き倒れ寸前でも女心か・・・。」と掲示板で語った方もいた。
ここで思い出してほしい。第一幕でロドルフォが歌った「冷たい手」を。
ミミは上品な風貌の清楚な美人だが、貧しい境遇にもかかわらず家事や仕事で手が荒れていないのである。白く滑らかな手をしている。暗闇の中で鍵を探している時、ロドルフォが初めて触れた手。ロドルフォはその冷たい手を温めさせてくださいと言うのだ。
もちろんミミはその手の美しさを自分のチャームポイントだと承知している。貧しいお針子は洗濯も炊事も自分でしなくてはならないが、冷たい水と粗悪な石鹸で手が荒れてしまうのが普通だ。しかし、ミミは手を大切にして手入れを欠かさなかったのだ。手と首筋は女の年齢と暮らしぶりが最もよく現れるところである。白く美しい手は、究極のおしゃれなのだ。そして、ロドルフォが愛でたミミの手。しかし、街をさすらっている間に、手はかじかんで紫色になってしまった。死を前にして、ミミはせめてその手だけは貴婦人のようにマフで包んで温め、美しいままにしたいと願ったのだろう。


●プッチーニ、マザコン説

プッチーニの作品に登場する女性達はマノンもアンジェリカもミミも最後には浄化されている。蝶々さんやトスカにはその必要がないけれど、トゥーランドットですらリュウの死で改心を見せているのだから。
プッチーニには、女性を罪や汚濁のうちにおき捨てにすることが出来ない性格は確かにあると思う。一種のマドンナ趣味で、女性に対する幻想を感じることもある。ま、何と言っても、プッチーニはイタリア男なんだから当然か・・・。
"Puccini"の著者モスコ・カーナーも、その原因としてマザコン説を採っている。

オペラ『ラ・ボエーム』では、原作の小説や脚本との落差がかなり大きい。プッチーニは(台本作家イッリカも)、ミミ像を原作のフランシーヌに比重多く描いたのではないだろうか。お針子で肺病で死ぬのは原作ではフランシーヌで、終幕、ミミがマフを欲しがるのも、原作の「フランシーヌのマフ」という章から。フランシーヌのモデルは原作者の恋人だったそうで、その名もリュシル、オペラでもミミの本名はルチア(リュシルのイタリア名)。一方、原作の中のミミ(このミミのモデルも著者ミュルジェの恋人だったらしい)はずっとグリセットらしくて、ロドルフ(オペラではロドルフォ)の部屋を出たり入ったりしている浮気な女として娼婦のように描かれている。

原作がオペラの理解への助けになる場合も多いが、この『ラ・ボエーム』に関しては、あまり原作にとらわれずプッチーニのミミ像をそのまま受け入れる方が私の好みである。必要な分だけは各幕の序文で充分、引用の形で語られているのだから。


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